[ 異郷 no.20, 2004.11.5 発行より]

  幕末のロシア語通訳、合田光正のその後

1896(明治29)年は、いわゆる「北洋漁業」の歴史の中でも実に画期的な年であった(「北洋漁業」という呼称とその実態に関する最近の研究として以下を参照。神長英輔「北洋とは何か 再構築された漁業史と対露観」、『ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(I)』2004年)。

それまでも日本人は函館港からロシア領海に出漁してはいたが、実質的には、松前藩が江戸後期から続けていたカラフトの漁場経営を引き継いだもので、その中心は依然サハリン南部にあった。1875年の領土交換によりサハリン島はロシア領になるが、日本の漁業者はこの領域での漁業を従来と変わらず「樺太漁業」と称していた。また、ロシア人経営の漁場も事情は変わらず、例えば、セミョーノフ商会は日本人を雇用して漁業を行ったが、その活動地域はサハリンで、たまたま対岸の沿海州、アムール川流域にも足をのばしたという程度であった。

ところが、1896年、それまでほぼ手つかず状態にあったカムチャツカ半島で漁業が着手されることになる。この地における水産資源の豊富さは、サハリンとは比べものにならなかった。実際、後に北洋漁業の主流はサハリンからこの水域に移行し、まさにドル箱となっていく。この年にカムチャツカ半島へ進出したのはロシア企業「コーチック商会」(日本では「オットセイ商会」とも呼ばれた)であるが、最初の3年間こそこの新事業で損益を出したものの、この水域で捕獲された鮭の日本式乾燥塩蔵に成功し、これを日本に輸出した。このとき労働者の供給地であり、また、鮭樽の水揚港であったのが函館である。漁業基地の函館では大勢の漁業者が雇われ、水揚げされる漁獲も年々増大し、4年後の1900年には日本船数隻も傭船されるに至った(拙論「函館におけるロシア人商会−セミョーノフ商会・デンビー商会の場合−」、『地域史研究はこだて』第21号、1995年、21-23頁)。

  では、コーチック商会のこの新事業展開の際に、同商会と日本人漁業者の仲介を行い、大々的に船を手配し、労働者を集めたのは一体どのような人物だったのか。コーチック商会は元来、その社名が表すとおり、オットセイ等の毛皮製造とその売買を専らとし、この海域の鮭鱒などの水産資源には長く関心を持たなかった。恐らくは、この人物がコーチック商会に日本の鮭鱒市場の可能性を示唆し、また、鮭鱒の日本式保存法の存在を教えて、同商会がカムチャツカでの漁業に進出する機会を与えたのではないか。1896年、コーチック商会の新事業のために、函館市中を奔走していたであろうこの人物は、一体誰だったのか。

この謎は長らくわたしを悩ませていたのだが、偶然にも、1928(昭和3)年9月30日付けの「函館新聞」の記事に以下のような記述を発見して、わたしの目はこれに釘付けになった。

「明治二十九年と思う、露国のスュールスキン会社にて漁業部を設け、パールという英国人を部長として、合田光正氏は英露の語学に通じ居たり。副部長として日本人を漁夫として雇入れ、日本向けの塩鮭露国向塩水漬を製造して販売せり。合田氏は其年より、胸中に、此事業は日本の資本にて日本人の手にて経営すれば、将来は大いに発展して永遠の基礎を作らんと、秘策を施して漁場を探査して、東西の漁場の尤も良好の場所数十ヶ所を選択して、他日の用に供せんと、其外鉱物も多少調査して記録となし、場所の写真図面等百五十余枚あり。只、惜しむべきは其記録写真図面等一切、大震災のために横浜にて焼失せる由、今日日露両国にて優良なる漁場として使用し居たるは、多く合田氏の調査して選みし所なりと言う...」(旧漢字を改め、適宜句読点を入れた)

「露領漁業の恩人、函館の人合田光正氏」という見出しでこの記事を書いたのは亀田郡七飯村の鈴木貞吉なる人物であるが、ここで言及されているのは、まさに1896年から始まるコーチック商会のカムチャツカ漁業と、この新事業を推進し、これを将来日本人資本によって奪取せんと画策した日本人である。文中で「スュールスキン会社」と呼ばれているのは、「コーチック商会」の英語表記(Sealskin Company)に他ならない。そして、この「スュールスキン会社」漁業部の日本人副部長合田光正とは、実は、幕末に箱館奉行所で働いた数少ないロシア語通訳の一人合田光正その人であった。

合田光正が通訳の修業を始めたのは1862年、志賀浦太郎のもとである。志賀は1861年にその力を買われ、長崎からロシア領事館付きの通訳として来函した。箱館奉行は翌年、ロシア領事との契約を完了した志賀を配下に雇い、通訳のみならず、通訳者養成を命じた。合田はこのとき志賀の門下生となったのである(拙論『函館市史』通説編2、170-171頁)。

当時、箱館奉行所には通訳が不足していた。函館には1858年以来ロシア領事団一行が駐在し、またロシア海軍の軍艦が多数入港したので、とても志賀一人では間に合わなかったのである。また、ロシア側も通訳を必要としていた。領事館敷地内に「学校」を用意するなどしていたから、彼らの側にも日本人に語学を教える意図があったことがわかる。実際、奉行が通訳養成を始める1年前、1861年には現役の足軽をはじめ、同心の子弟たちにロシア語の稽古をさせている事実が記録として残されている。

 一つ例を挙げる。1861年の「異船諸書付」(北海道立文書館蔵)中に「私共(同心の息子等4人の名前がある−筆者)魯語稽古せし為日々魯西亜館(領事館のこと−筆者)江相越候処、稽古本として右之品銘々江差送り候…」という文書がある。つまり、下級役人の息子4人が、毎日ロシア領事館に出向いてロシア語の勉強を行い、各自が教科書を与えられていたのである。教科書とは「魯国風聞書」や「同イロハ本」とあるから、教師役と思われるゴシケーヴィチが本国から取り寄せて持ってきたものだろう。同じこの資料中の他の文書には、少なくとも11人から18人の生徒の名があるが、この学校がいつまでどのように機能したのかなど、全体像はよくわからない。ただ、実績が伝えられていないところをみると、大きな成果は得られなかったものと想像される。

このように、通訳養成事業はほぼ同時期に日ロ双方で着手されたのではあるが、当時の函館には体系的な教授法が伝わっていたわけでも、専門の教師がいたわけでもない。まして、外国語としては修得がことさら難しいと言われるロシア語で、一人前の通訳に成長した者はほとんどいなかった。私が知る限りでは、ロシア語の「通弁御用(通訳)」として箱館奉行に採用されたのは、千葉弓雄、若山弁次郎、そして、合田光正(幼名、民蔵、途中で鈴木甚太郎とも名乗る)の3人のみである(前掲『函館市史』通説編2、同頁)。

この3名の努力精進はいかなるものであっただろうか。合田は1865年には同僚とともに修道司祭ニコライについて勉強したいと願い出て、ニコライも、彼らの先生として一役かっている。「御手当元済」(北海道立文書館蔵)によれば、その後めでたく「通弁御用見習」となり、曲がりなりにも、役所からささやかな「筆墨料」という手当が得られるようになったのは1866年のことであった。その2年後、江戸幕府は崩壊し、明治維新を迎える。もちろん箱館奉行所も消滅したが、合田は開拓使に引き続き職を得て、函館で訳官として働いたことが、いわゆる当時の「職員録」から知ることができる。1872年の「官員全書」(北海道立文書館蔵)には開拓使七等訳官として明治壬申四月に任じられたと記されている。ちなみに、ゴシケーヴィチが留学生としてロシアに連れて行った田中清は四等訳官として採用されており、七等という合田の等級は訳官としては当時最も低いものであった。合田の記録は1876年に開拓使を退任したところで終わっている。

その合田光正が、カムチャッカ海域への日本人進出を仕掛けた演出家であったことを知っったのは、わたしには大いなる喜びであった。合田の同僚、千葉弓雄については既にその生涯がつまびらかにされているが(秋月俊幸「幕末樺太の魯語通弁千葉弓雄のこと」、『えうゐ』第4号、1977年。)、通訳者となった者たちは、先述のとおり、そのほとんどが身分の低いものであったから、長崎稲佐の大庄屋の御曹司であった志賀は別格として、彼らの名前はこれまで殆ど後世に伝わってこなかった。また、その困難な職責にもかかわらず、通訳の身分は低く薄給であったから、合田の後年の活躍には胸のすく思いがした。彼の後半生を明らかにできたことは、些か大袈裟だが研究者冥利に尽きる。

「函館新聞」によれば、合田はその後、英国人パールと決別してコーチック商会を辞し、部下であったロシア人の名義で漁場を借用して、内実は全て日本人の手によるカムチャツカ漁業の基礎を築いた。その手腕を認めた函館の内野高吉は、東京日本橋の海産問屋森本新太郎に合田を推挙し、カムチャツカ漁業への投資を促した。これは1899年頃というから、いよいよ日本人がカムチャツカに殺到する兆しを見せ始めるころである(『日魯漁業経営史』第1巻、1971年18-19頁 )。ちなみにこの年、函館の斎藤豁三郎が当時ウラジオストク在住の実業家ブリーネル(男優ユル・ブリンナーの祖父)と組んで出漁したことは、周知のとおりである。森本はこのカムチャツカ漁業で大いに利益を上げたというが、1911年に死亡している。一方、合田自身は1908年12月に横浜市で亡くなっている。享年61歳であった。この記事が書かれた1928年当時盛んであった蟹缶詰製造を含め、カムチャツカ漁業の構想は、既に20年前に合田が発案していたものであるとして、「函館新聞」は彼の先進性を讃えている。

| もどる |

PCpylg}Wz O~yz Yahoo yV NTT-X Store

z[y[W NWbgJ[h COiq [ COsI COze